LOGIN隼人くんの指先は。私の顎の下で止まっていた。経験があることを。隠すつもりはない。でも。今の私たちまで。その延長だと思われたくない。そう言われている気がした。「軽く思ってないよ」「本当に?」「うん」隼人くんの目元が、少しだけ緩む。「なら、よかった」親指が。下唇の端へ、ごく軽く触れた。それだけで。さっきより呼吸が浅くなる。指はすぐ頬へ戻った。「綾香ちゃんが」低い声が続く。「どこまでなら嫌じゃないか」指先が。首元へ下りる。肌へ触れる直前で止まった。私が息を吸う。それを見て。隼人くんは、それ以上進まない。代わりに。手のひらが背中へ戻る。「前より、少しずつ分かってきたから」「分かるんですか?」「分かるよ」頬を撫でる親指が、ゆっくり動く。「身体が固くなる時も」「息止める時も」私の目を見たまま。「ちょっと離れた方がいい時も」背中を包む腕が。ほんの少し緩む。私が息を吐く。すると。その腕はまた。ゆっくり私を引き寄せた。「逆に」視線が唇へ落ちる。「もう少し近くても大丈夫な時も」声が低くなる。「前よりちゃんと分かる」隼人くんの顔が。ゆっくり近づく。触れる直前で止まる。私は。胸元へ置いていた手を上げた。首の後ろへ回す。髪の生え際へ。指先が触れた。その瞬間。隼人くんの瞳が。わずかに揺れる。「綾香ちゃん」「うん?」「そういうの」声が。唇のすぐ近くへ落ちる。「触れていいって思うよ」私は。少しだけ腕に力を込めた。「いいよ」言った瞬間。隼人くんの目が細くなる。何かを確かめるように。それでも。今度は聞き返さなかった。代わりに。背中へ回った腕が、ゆっくり深くなる。唇を重ねる直前。私は自分から、残っていた距離を埋めた。隼人くんが。静かに受け止める。そのあと。身体が胸元へ引き寄せられた。近い。でも。苦しくはない。隼人くんの手は。背中の中心をゆっくり撫でている。私が指先に力を入れるたび。その動きも変わる。唇が離れて。頬へ。そこからまた口元へ戻る。閉じた瞼の裏で。部屋の灯りがぼんやり揺れた。ようやく唇が離れた時。互いの呼吸は。少しだけ速くなっていた。額が触れる。近すぎて。視線の逃げ場がない。「こういうの」私は息を
「お兄さんは、完全に揶揄ってる感じだったけど」「……あれは絶対、わざとです」隼人くんが小さく笑った。「俺が気にしてるのも、すぐ分かってたよね」「直くん、そういうのには気づくから」「綾香ちゃんは気づいてなかったけど」「何に?」隼人くんが、息を漏らすように笑う。「俺が手を引いた理由」「一緒に席へ行くためでしょう?」「それもあるけど」私の腕に触れていた指が、ゆっくり手首まで下りる。そこから。掌が重なる。指先が、私の指の間へ静かに入った。「直哉さんのそばにいた綾香ちゃんを」一度、目が合う。「自分の隣に置きたかった」胸の奥が小さく鳴った。冗談ではない。笑ってはいるのに。目だけは、まったく誤魔化していなかった。「本当に」私は少し笑う。「分かりやすくなりましたね」「綾香ちゃんの前ではね」つないだ手を少し持ち上げる。隼人くんの視線が、絡んだ指へ落ちる。「前より、隠さないようにしてるから」包まれた指が温かい。私は少しだけ身体を寄せた。空いている手を、隼人くんの胸元へ置く。薄いシャツ越しに。思ったよりはっきりと体温が伝わった。その瞬間。隼人くんの呼吸が、ほんのわずかに止まる。視線が胸元の私の手へ落ち。ゆっくり顔へ戻った。さっきまで残っていた笑みが。静かに消えていく。「綾香ちゃん」声が低い。「何?」「こういう時は、敬語じゃないんだね」「え?」「さっきから」私の手の上に、隼人くんの手が重なる。離すわけでも。押さえつけるわけでもない。ただ。そこに留める。掌の下で。鼓動が、さっきより少し速い。「熱くなると、タメ語増える」「そんなことないよ」言った瞬間。隼人くんの眉が少し上がる。「今も」気づいて。言葉に詰まった。目元に、わずかな笑みが戻る。「やっぱり」「意識してないだけです」「戻った」「揶揄わないで」「うん」声だけは素直だった。でも。私の手を包んだまま、身体を少し起こす。ソファが沈む。膝が触れる。背中へ回った腕が。さっきより深く私を包んだ。「嫌だった?」聞くと。隼人くんが短く息を吐く。「逆」顔が近づく。「だから困る」「触っただけでしょう」「綾香ちゃんから触られると」吐息が。唇のすぐ近くへ落ちる。「触っただけでは終わらないよ」胸が
玄関の扉が閉まる。外の音が遠ざかり。静かな部屋に、鍵のかかる小さな音だけが残った。隼人くんは私のバッグを持ったまま、廊下の奥へ向かう。「寝室に置いてくるね」「ありがとうございます」答えると。振り返った隼人くんが、少しだけ笑った。「急に敬語」「荷物、持ってもらったので」「そういうところ、まだ綾香ちゃんらしいね」そのまま寝室へ消えていく。私はリビングへ入り。窓際で足を止めた。ガラスの向こうに、夜の街が広がっている。高層ビルの窓。赤く明滅する航空灯。道を流れていく、細い車の光。ガラスには。部屋の柔らかな明かりと、私の姿が薄く重なっていた。昨日も見た景色だった。けれど。今日は、胸の内側に残るものが違う。怒りを抱えたまま入った昨日より。呼吸が、ずっと楽だった。寝室から戻ってきた隼人くんが。ソファの前に立ったままの私を見る。「どうしたの?」「何でもないです」「帰りたくなった?」「なってないよ」言い切ると。隼人くんの目元が、分かりやすく緩んだ。「よかった」私の肩へ、指先が触れる。手のひらで押すのではなく。こちらへおいでと伝えるような、ごく軽い触れ方だった。二人でソファへ座る。昨日と同じ場所。けれど。今日は、腕を下ろせば互いの袖が触れそうだった。隼人くんが背もたれへ身体を預ける。横を向いた視線が、私の顔へ留まった。「昨日は、空気悪かったよね」「自分で言うんですか?」「俺のせいなのは分かってたけど」少しだけ笑う。「分かってたなら、何とかしてくださいよ」「何とかしようとはしてたよ」「できてなかったでしょう」「うん」あっさり認める。隼人くんの腕が、私の肩の後ろへ回った。まだ、抱き寄せるほどの力はない。ただ。そこに腕を置いてもいいか、様子を見ている。「彼女が家にいるのに」低い声が、すぐ近くから落ちる。「いてくれて嬉しいのと」私の顔を見て。口元だけで笑う。「空気悪いのが両立するって、なかなかないよね」「笑い事じゃないでしょう」「でも」肩の後ろにあった腕が。ほんの少しだけ私を引いた。「怒ってるのに、帰らなかったから」「帰ろうとは思いました」「でも帰らなかったよね」「それは……」続きを探していると。隼人くんの目が、私の横顔を静かに追う。「嬉しかった?」
私のマンションの前へ着くと。隼人くんは、そのままタクシーを待たせた。「すぐ戻る?」「うん。着替えだけ取ってくる」「じゃあ、ここで待ってる」私は一人でエントランスへ入った。部屋へ戻り。クローゼットを開く。少しだけ迷う。昨日。次に来る時は、服を置いていって。そう言われた。どこまで本気なのか。確かめたわけではない。それでも。隼人くんの家に残しておいても困らない服を選び。小さく畳んで、バッグの奥へ入れた。玄関を出る。待たせていたタクシーへ戻ると。隼人くんが、私のバッグへ目を落とした。「意外とちゃんと持ってきたね」「明日の仕事もあるから」「置いておける服も持ってきた?」すぐに聞かれる。私はドアを閉めながら。少しだけ視線を逸らした。「ちょっとだけ」隼人くんの口元が。分かりやすく緩む。「そっか」それ以上は言わなかった。けれど。満足していることは、十分伝わった。タクシーが動き出す。夜の道を抜け。隼人くんのマンションへ向かう。同じ夜に。二度目の車寄せだった。一度目は私の家。今度は。隼人くんの住むマンションのエントランス。タクシーは、そのまま広い車寄せへ入った。照明に照らされた石造りの壁。静かに開く自動ドア。ホテルのように整えられたエントランス。見慣れたはずなのに。改めて見ると。やはり、私の生活とは少し離れた場所にあるように思える。「すごいマンションですよね」何となく口にすると。隣から、すぐに返事が落ちた。「一緒に住む?」あまりにも自然で。冗談なのかどうかも分からなかった。私は隼人くんを見る。「え?」「ここで」窓の外へ目を向ける。「一緒に住む?」同じ言葉を。今度は少しゆっくり言われる。笑ってはいない。軽くも聞こえない。言葉が出てこないまま。隼人くんを見返す。その間にも。タクシーは完全に停まった。「……隼人くん」ようやく名前だけを口にすると。隼人くんは、少しだけ目を細めた。「降りるよ」何もなかったように言う。先にドアを開け。私の分のバッグまで自然に持って降りた。「自分で持てるよ」「分かってる」「じゃあ」「持ちたいから」そのまま。私の返事を待たずに歩き出す。エントランスのゲートを通り。エレベーターホールへ向かう。隣に並びながら
直くんは。そのまま軽く手を上げた。「じゃあ、おやすみ」「おやすみ」「お疲れ様です」ドアが閉まる。タクシーは。滑るようにホテルの前を離れていった。赤いテールランプが。通りの先へ消えていく。「本当に」私は小さく息を吐いた。「忙しいのに、元気だよね」「そうだね」隣から返事が落ちる。顔を上げる。隼人くんは。タクシーが消えた方向ではなく、私を見ていた。「何?」「いや」少しだけ笑う。「お兄さん、面白い人だなと思って」「直くんが?」「うん」「合いそうだったよ」「仕事なら、たぶん」「仕事じゃなくても」言うと。隼人くんが目を細めた。「綾香ちゃんが間にいなければ」「もう少し気楽に話せるかもしれない」「私がいると、話しにくい?」「そうじゃないよ」すぐに否定する。「ただ」少しだけ考えるように視線を外す。「近いから」何のことか。すぐには分からなかった。「直くんとの距離?」「うん」「兄妹だよ」「分かってる」隼人くんは、苦笑する。「気にはならないって言ったけど」「結構近いなって思って。ここに着いて、二人を見たときに。気持ちがざらついたのは本当」言葉は穏やかだった。責めるような響きもない。それでも。少しだけ引っかかっていたことが分かる。「直くんは」私は言う。「昔から、ああいう距離だから」「うん」「私も慣れてるし」「それも分かってる」隼人くんは。ゆっくりこちらへ近づいた。ホテルの入口を出入りする人を避けるように。私の肩へ手を添え。少しだけ自分の方へ寄せる。「でも」低い声が落ちる。「自分の近くにいてほしいと思うのは」「仕方ないでしょう」胸の奥に。小さな熱が広がる。さっき。直くんの近くにいた私の手を。隼人くんが自然に引いた。あの時も。同じことを思っていたのだろう。「今も?」聞くと。隼人くんは、少しだけ笑った。「今も」肩へ置かれた手が。そのまま腕へ下りる。触れ方は軽い。けれど。離れるつもりはないらしい。「綾香ちゃん」「うん?」「今日も」一度、言葉を止める。「一緒にいたいんだけど」まっすぐ目を見られる。「うちに来る?」少しだけ間を置いて。続けた。「それとも、送ってく?」選ばせてくれる。どちらを答えても。嫌な顔はしないのだと
直くんが、一度こちらに視線を向けたのを感じる。そのまま、軽く笑って。視線をグラスに戻す。 「最近」少し間を置いてから、話を切り出した。「家の話を聞く機会、増えてるから」「どうして?」私が尋ねると。直くんは、ウイスキーのグラスを指先で軽く回した。氷が小さく触れ合う。「投資会社の方は相変わらず忙しいんだけど」一度、隼人くんを見る。「最近は、俺も家業を手伝うことが増えてて」「直くんが?」「そんなに意外?」「家のことは、真哉兄さんに任せてると思ってた」「基本はね」直くんは、軽く肩を竦める。「でも、投資や海外事業が絡むと」「俺の仕事と完全に切り離すのも難しいから」昔から。直くんは家の中へ収まる人ではなかった。白松家の名を使うより。自分で人脈を作り。自分の判断で事業を動かしてきた。それでも。完全に家から離れているわけではない。必要になれば。自然に戻り。家の外で得たものを、家のためにも使う。直くんらしい関わり方だ。「だから」直くんは、今度は隼人くんへまっすぐ目を向けた。「綾瀬で投資事業をやるなら」「今後、俺との関わりも増えるかもしれませんね」隼人くんが。少しだけ目を細める。「その可能性はあると思います」「やっぱり」「まだ」隼人くんは落ち着いた声で続けた。「具体的にどこまで引き継ぐかは決まっていません」「でも」「家の投資部門を残すなら」「外部との窓口は必要になるので」「そのうち、また会議で会いそうですね」直くんは、どこか楽しそうだった。「前は」「お互い、ほとんど話さなかったですけど」「次は、少し話せそうです」「仕事の場なら」隼人くんの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。「今日よりは、真面目な話になると思います」「今日は真面目じゃなかった?」「半分くらいは」直くんが笑う。「じゃあ、残り半分は次に取っておきます」軽い会話だった。けれど。二人の間には。初対面の時よりも、少しだけ近い空気が流れている。直くんは。人との距離を縮めるのが早い。隼人くんも。相手の言葉の裏を読みながら。必要以上に構えることはしない。仕事で会えば。意外と相性がいいのかもしれない。そう思った時。直くんが腕時計へ目を落とした。「そろそろ行かないと」「まだ仕事なの?」「うん」「今か
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。